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Against the Dayという小説を読んでから、
そのまま、ほとんど間髪をいれないで、別の小説を
読んでいる。
ちょうど、時代設定は18世紀の下旬かなと。
「世界史」的に、フランスとイギリスが
「新大陸」や「東南アジア」「南アジア」といった
地域で、植民地獲得競争に明け暮れているという
そういう時代。
小説読解の準備として、この時代に関する
雑学めいたものを、眺めている。
小説に1回登場するだけになりそうな歴史上の
人物名をWikipediaなどで読もうとすると、
それだけで、通勤電車の往復が飛んだりする。
ある意味、贅沢な時間の使い方だなと。
しかも、いいのか悪いのか知らないが、かなり
後半になってからおもしろいことを書かれている
ポイントを見つけたりする。
ある種の、宝探しに近いのかもしれない。
wikipedia:Robert Walpole
wikipedia:Robert Clive, 1st Baron Clive
二人とも、イギリスの政治家。
作中に、やたらとフランスが登場するのでどうしてだろうと
思っていたのだけど、ここの注釈を読んでいて、合点が
いく。
「大英帝国」というものが、建設されようとしている
時代。
頭の中だけは、イギリスモードになっているときに、
ブログでこんな記事を見かけた。
Inspirationとして、ここに挙げておく。
幼児化する政治とフェアプレイ精神 (内田樹の研究室)
メジャーなブロガーの中でもかなりの高齢に属するのでは
ないかと思います。
ブログを更新しようとする意欲があるだけ、同年代の中でも
エネルギーあるんじゃないかなって思う。
彼が、今年の衆議院議員選挙の党派争いに関係するコメントを書いているところで、偶然、イギリスの政治家の経験知
について触れているものがあった。
テニスで、相手がすべって転んだときにスマッシュを控えるのは英国紳士的な「フェアプレイ」であり、これができるかどうかで人間の質が判断される。
テニスの場合、強打するか、相手の立ち上がりを待つかの判断はコンマ何秒のうちに下される。政治的思量の暇はない。
フェアプレイ精神が身体化されていない人間にはそういうプレイはしたくてもできない。
だから、英国人は「そこ」を見るのである。
テニス技術の巧拙や勝敗の帰趨よりも、そのふるまいができるかどうかが、そのプレイヤーがリーダーとしてふさわしいかどうかのチェックポイントになるからである。
家庭教師的にいえば。
学習指導の上で、「さあ、机に向かうんだ!」みたいな
モードにもっていこうとするとき。
いろいろなやり方があるけど、たとえば
「朝、起床してから、かならず、掃除をしてから
机につく。」
みたいな、行動規範をまず、自動的に実行するように
しろ!
みたいな流儀がある。
「意欲」「勤勉さ」といったものを「身体化」させるという
ことなのかな。
ジョン・ル・カレの新作『われらが背きしもの』に興味深い場面があった。
オックスフォード大学で文学を教えている青年ペリーはバカンスで訪れたリゾート地の海岸で、ふとしたきっかけからロシアの犯罪組織の大物であるディマとテニスの試合をすることになる。
力量の差に気づいたペリーは少しのんびり試合を進めようとした。一方的な「虐殺」ではなく、家族たちが見守っている前で必死で走り回るディマのプライドを配慮して、ゲームらしいかたちに整えようとしたのである。
「サイドを変えたとき、ディマに腕をつかまれて、怒声を浴びせられた。
『教授、あんたおれをバカにしたな』
『僕が何をしました?』
『さっきのボールはアウトだった。あんた、それがわかっていたのに、わざと手を出した。おれはデブの半年寄りで、半分死にかけているから、手加減してやろうとでも思っているのか?』
『さっきの球は、ラインを割ったか割らないか、ギリギリのところでしたよ』
『教授、おれは賭けでテニスをやるんだ。やる以上、何か賭けよう。おれが勝つ、誰もおれをバカにしない。どうだ、1000ドル賭けないか?試合を面白くしようぜ』
『お断りします』
『5000ドルでどうだ?』
ペリーは笑いながら、首を振った。
『あんた、臆病者だな?だから賭けに乗れないんだな』
『たぶんそういうことですよ』とペリーは認めた。」
そして試合が終わる。ペリーが勝った。ディマはペリーを熱く抱きしめてこう言う。
「『教授、あんたはものすごいフェアプレイ精神のイギリス人だ。絵にかいたようなイギリス紳士だ。おれはあんたが好きだよ。』」(ジョン・ル・カレ、『われらが背きしもの』、上岡伸雄他訳、岩波書店、2012年、43〜44頁)
この一言がきっかけでペリーとディマはありえないような不思議な絡み合いの中に引き込まれてゆくのであるが、それはともかく、テニスを通じてイギリスの紳士たちは「勝つこと」だけでなく、「どう勝つか」を学習する。
「敗者を叩き潰す勝ち方」ではなく「敗者に敬意をもたれるような勝ち方」を学ぶことが指導者になるためには必要だからだ。
いまのイギリス人がどうかは知らないが、ジョン・ル・カレが遠い目をして回想する大英帝国の紳士たちはそういう勝ち方をパブリックスクール時代に学んだ。
外国の政治家を引き合いに出して、日本の政治家を
たしなめるというスタイルに共感を覚えるかどうかは
さておく。
私も、個人的にちょっと外国の政治家に興味がないわけでは
ないので。あくまでここでは、ピンチョンの小説にふれていく上で、有益そうなものをさわっていく。
それは理想主義的ということではない。労働者階級や植民地原住民たちを支配する訓練の一環として学んだのである。
自分が上位者であり、相手の立場が弱いときに、あえて手を差し伸べて、「敵に塩を送って」、ゲームのかたちを整えるというのは、実は非常に費用対効果の高い統治技術であり、ネットワーク形成技術だからである。
倫理的思弁が導いたのではなく、統治の現場で生まれたリアルでクールな知恵である。
倫理的思弁が、リアルさとクールさから離れているとは
必ずしもいえないと思うけど、ものの見方として
記憶しておいてもいいかも。
ただし、重要なことは、それは政治的オプションとして「選択」することができないということである。
脊髄反射的にできるものでなければ、「フェアプレイ」とは言われない。
熟慮の末に、「こうふるまえば自己利益が増すだろう」と思って選択された「敵に塩」的パフォーマンスはただの「マヌーヴァー」である。
考えている暇がないときにも「フェア」にふるまえるか、「利己的」になるか、その脊髄反射にその人が受けてきた「統治者たるべき訓練」の質が露呈する。
ふりかえってわが国の「ウッドビー統治者」たちのうちに「フェアプレイ」を身体化するような訓練を受けてきた政治家がいるだろうか。
繰り返し言うが、それは「上品な政治家」とか「清廉な政治家」とかいう意味ではぜんぜんない。
統治者としてリアルな力量があるかどうかを「フェアプレイ」を物差しで見ようとしているだけである。
合気道の先生が、イギリスの政治の世界にまで想像の翼を
広げて、合気道も政治も同じだみたいな話に
なっていますが。
まあ、そういう見方もありということで。ひとつの
発想ですが。
イギリスの統治。
大英帝国というのは、かくも「コンテンツ」として
成立しているということ。
そこには、当然、いろいろな人たちの色々な蓄積が
ある。
こういったものが、創作の「部品」としてしっかり
はめ込まれているのが、ピンチョンの一つのスタイルの
ようです。