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授業中に、こんな人の文章に出会う。
蚕が1年に「絹」を生産する回数を増やすための
研究というものがどういった技術を生み出したのか
というトピックだった。
ネットでこの人のことがわかるような情報を探したら
こんなものが出てきた。
どうやら、この先生の研究領域とどんぴしゃりだったんだね。
この人の文章がとある問題集に採用されたと。
ということは、きっとこの問題集を編集した人も当然、
この人がどんな経歴の持ち主なのかは知っていたのだろう。
そして、それは、この問題集の編集に関わっている人たちの
「層の厚さ」というものの例証になっているのだろうと
思う。
下記には、この茅野先生という人のエッセーを読む
ことができる。よりこの人の研究領域に近接したもの。
素人が近づいていってわかるかわからないかのギリギリの
ところかな。
大学に職を得て、業績を残すということはどういうことなのかということが、わかりやすく書かれていると思う。
徹頭徹尾、「いままで知られていなかったこと。」
「間違って理解されていることをタダしていく。」
こういうことに、注力するのが「研究者」という人の
鏡なのだろうと思う。
「事業」を志す人に求められているのはこういう「資質」
ではないように思う。
こういう「先生」が「産み落とした」「業績」に
なにか「使い道」がないかどうかを考える。
そのために、「人、もの、金」の「計算」をして、
「事業化」の「実行」をする。
どちらに向いているのかというのは、Case by Caseなんだろうなと。
茅野 春雄先生
scientist:茅野春雄
私がやってきた3つの仕事は、それぞれ違ったプロセスを辿っています。エグジゾンの仕事は、実験のアイデアから細かいデザインまできちんと立て、その通りに仕事が進みゴールに行き着いた。
算数・数学でいうと、定石の「解法」のようなものが
あって、その通りに計算作業をしていったら、欲しい
結果が出たみたいな。
一方、休眠の仕事では、研究の目標を明確だが、実際何をやってよいのか、まったくのノー・アイデア。暗中模索している中に偶然突破口が開け、思わぬ展開をみせた。しかし最初に目指した研究目標は達成することができなかった。
解答への突破口になるような「仮説」がみつかるまで
あれやこれやの試行錯誤をする。得られたデータから
なんらかの「規則性」のようなものが見つかると。
でもそこまでいっても、100点満点の答えが得られるのかと
いうとそうでもない。
そしてリポホリンの場合は、思いつきの実験をしているうちに、偶然の観察がきっかけでとなって、予期しなかった方向に仕事が展開していった。少なくともこの研究は“脂質輸送”などという言葉さえ知らなかったからこそできたのだと思っています。
そこに「問題」があるということさえ知らない。
「目的」も「経路」もそれを認識することが原理的に
できなかったところで、「何か」がみつかる。
昔、都立大にいたころ、団勝麿先生に言われたことがあります。「茅野君、君は論文や本を読むのがあまり好きではないようだね。しかし、それは悪いことではないよ。読みすぎると凡人はそれに囚われてしまう。いろいろ知識を頭に入れて、さてと言って始めた仕事にいい仕事なんかないよ」
自分が不思議だと感じたことを自分の手でやる。流行は追わない。40年間を振り返りながら、もう少し勉強をしておけばよかったなあ、という苦い想いと共に、先生の言葉を思い出しています。
痛烈な言葉です。この先生の言葉、私も仕事を進めていく
上で忘れないようにしたいと思います。