ピンチョンの"Mason&Dixon"を読み始めて、
ようやく折り返し地点まで着た。

このまま完走できたらいいなって思う。
フルマラソンの42.195Kmを走りきる選手は
最後の400メートルでは、スタートを切る競技場だけど。
あそこまで走りきるのが楽しみなのかなとか。
そんなことを思う。
ある程度、まとまって期間1冊のテキストに取り組んでいると、
色々な試行錯誤を特に自覚することなくても実行している。
一つ、Tipsというか。気がついたこと。
Amazonの書評でピンチョンの作品のコメントを見ていたら、
読者のInputが深ければ、深いほど、ピンチョンの作品を読んでいて
得られるものも大きいと。
そんな要旨が書かれていた。
確かに、その通りだよなと思う。もちろん、世の中で「傑作」といわれている
小説には、その場面場面のウィットを読者が楽しめるように「解説」が
付されている。読んだわけではないけど、「ユリシーズ」の「訳注」は半端な量ではないらしい。
しかし、ピンチョンの作品のように、おそろしく詳細な注釈が
Wikiでまとまっていて、無料で、ネットに接続しているPCならどこからでも
アクセスできるというのもあまりないのかもしれない。
(あったら教えて欲しい。)
というわけで、「若気の至り」(若くないですけど。)、
「よっしゃ、WikiからつながっているWikipediaのリンク記事は
出来る限り、全部読んでみよう!」
なんて、思って、途中まではやってみたのですが。
もちろん、歴史上の重要人物のほとんど「職歴」に近い詳細な歴史
を押さえることや、ジャカルタで使用されている伝統的な「刀」の歴史
なんてのを、隅から隅まで、押さえるなんてことも、
作品を読み進めていく上で悪いことではないと思う。
実際に、そういう「詳細な準備」をしてから、ピンチョンのテキストに向き合う
というのも一つの「手法」ではあると思う。
しかし、これをやってみて、直面した問題点が一つ。
基本的に、僕は、Wikiとピンチョンのテキスト(Kindle)を並行して
読むということはしない。
最初、Wikiだけすべて押さえてから、テキストの購読にはいり、
読んでいる最中に、Wikiで出てきたことが記憶から飛んでいても、とりあえず、
章の終わりまで、読み進めてしまうというスタイルでした。
こういうところで「性格」が出ます。
だから、せっかく、Wikiで時間をかけて、おさえてテキストの購読に
入っても、すっからかんに近い状態になっていることがあったということ。
どういう文脈で、Wikiに記載されている知識が使用されているのか
わからないまま「オレンジ公ウィリアム」に入っても、取っつきにくい。
時間をかけて、Wikiの調査をしたわりに、テキストでの扱いはものすごく
軽かったということもあります。
逆に、ここはそんなにたいしたことないのかなというWikiの知識が
テキストに至る所に、「読者が当然知っているであろう」と「筆者が
踏んでいる」ものとして出てくることもあります。
たとえば、
「植物学者 リンネ」
ある植物や食品の命名を登場させるときに、「リンネの分類法によると、XX」
みたいに出てくる。
はたして、こういう記述を読み進めるために、リンネについての
詳細な注釈を理解している必要があるかどうかは人によって考えが
別れるところとなりそう。
逆に、「ロビンソン・クルーソー」という項目などはどうか。
どうも、作品のなかで、RCという名前でそれっぽいのが出てくる。
ここら辺になってくると、「あらすじ」だけでもいいから、
ロビンソン・クルーソー」について知っていたほうがいいのかもしれないとか。
もしくは、この本の筆者であるデフォーという人についても詳しく知っていた
ほうがいいかどうかとか。そういうことが問題になってくる。
作品注、「サンドイッチ伯爵」なんてのも出てきます。

wikipedia:ジョン・モンタギュー (第4代サンドウィッチ伯爵)

The modern sandwich is named after Lord Sandwich, but the exact circumstances of its invention and original use are still the subject of debate. A rumour in a contemporary travel book called Tour to London by Pierre Jean Grosley formed the popular myth that bread and meat sustained Lord Sandwich at the gambling table.A very conversant gambler, Lord Sandwich did not take the time to have a meal during his long hours playing at the card table. Consequently, he would ask his servants to bring him slices of meat between two slices of bread; a habit well known among his gambling friends. Because John Montagu was the Earl of Sandwich others began to order "the same as Sandwich!" - the ‘sandwich’ was born. The sober alternative is provided by Sandwich's biographer, N. A. M. Rodger, who suggests Sandwich's commitments to the navy, to politics and the arts mean the first sandwich was more likely to have been consumed at his work desk.

ピンチョンの作品で、サンドイッチが食事として出てくるシーンが
あるのです。
では、この時にサンドイッチさんがどういう人なのかということを
読書を勧めるために必要なんだろうかということになります。
調べてみると、どうやらこの人、Mason&Dixonの時代とほぼかぶる形で
イギリス海軍でかなり上のほうにいた人みたいです。
Mason&Dixonでは、イギリスとフランスの海外植民地戦争というものが
重要な舞台設定の一つになっています。
だとすると、その背景の理解を深めるために、そんなに必要ではないけれど、
この人の職歴や経歴をざっとみることを通じて、イギリスの軍事史政治史を
押さえておくというのは、なんらかの形で本書の通読に資するのでは
ないかと思います。
今回のエントリーを起こそうと思ったのは、当時、海軍というイギリスの
中枢の組織で、これほどまでに重要なポストにいた人物が
時間が経過して現代になってみると、その功績や業績とはほとんど
関係ない、「サンドイッチの語源の立役者」としてその名前が
知られているということに、ひとつのユーモアを感じたからです。

というわけで、長くなりましたが、このようなサンドイッチさんとの
出会いなどを通じて、私がたどり着いた結論は、
Wikipediaには入り込まない。まずPynchonWikiを全体、ざっと
読んでから、本文に入る。」
本文に入ってみると、
「どうもWikiに書かれたことだけでは、今ひとつ、テキストを飲み込んだ気がしない」
ということがしばしば起こります。
その時は、意を決してWikipedia全文に入り込むと。
そして、さらにこれは知る必要があると思ったら、たとえば
Wikipediaの日本語の記事に飛ぶ。
そうすると、手頃な参考文献が列挙されていたりします。
いままでに「マリアテレジア」という女王さまの一生と、
「フランスの社会史」に関しては、Wikiからたどって、
「補強」しました。
このようにすることで、
より詳細に知りたいと思ったところは、もっと踏み込んでいき、
作品での扱われ方から確認して、あまり踏み込まなくてよさそうだと
思ったら、ざっと流すという形で。
読書のための準備にメリハリをつけていくという方針が立ってきたように
思います。
この時代に、よく愛用された「コーヒー豆のブランド」なども
登場します。
そこのWikipediaにいくと、世界中の有力なコーヒー豆のブランドが
列挙されています。それでは、一つ一つのコーヒー豆について詳細に
知る必要があるのかとか。
「知る必要がある」というのも一つの結論にはなりそうです。
登場する農作物なども「ではその作物や商品がどのように作られて、
事業化されていったのか」という観点から眺めると、
カリブ諸島というところがあって。
コロンブスがはじめて、入植をして。
アフリカの奴隷を送り込んで、砂糖の栽培をして・・・。
といった、当時の「社会構造」を決定していくような経緯に出会うことに
なります。
Mason&Dixonは、入植した人たちが、農作物を耕すために、常に
土地所有に飢えていたという背景がなければ、新大陸に渡ることも
なかったはずです。まだ、この先の話になりそうですが、
このような背景があって、入植者と入植者の間で、いろいろな複数の
対立軸をもって、土地を巡る争いをしていたから、「土地に線を引く」
必要が出てくるのです。
というように、「読んで」いくと、
なにげなく、出てくる「商品」ひとつでも、油断なく調べていくのが
肝要という結論にもなる。
でもいちいち、こんなことを几帳面に気にして、途中が読書を放棄するのも
いただけない。結局、手のかかる読者は、いまどき、かなり贅沢な
時間の使い方をしないと、実現できないといったことにもなるかも
わかりません。
本作品このような形で、読者を、かなり巨大な迷路というか、
ジャングルの前に、立たせます。
この長い旅から、何をつかむのかということも。
読者次第なんだろうなって。(4182文字)
書いていて、まだ機械仕掛けのアヒルの話をしていないとか。
酒を飲んでいるDixonの決め台詞"In the pursuit of happiness"を
「それ、まねしていい?」と聞いてくるトマスジェファソンとか。
怪しげな雰囲気の精神病院の話とか。
作品の筆者の「歴史哲学」のようなものや。
そうだ、あれも書いていない。
これも書いていない。
といったことになる。後味を引きずる作品になっています。
インターネット上で、検索できる「画像ファイル」も重要だったりします。
「馬車」の説明が、テキストだけで懇切丁寧に書かれていたりしますが、
日本人からいって、これで馬車の形を想像するのはつらい。
Wikipediaに写真がのっていなくても、
Google検索をかけたら、「馬車」の写真が出てきたり、
タバコの葉っぱが詰め込まれた「樽」の写真が出てきます。
こういうのも、「百聞は一見にしかず」に典型でしょう。
そういうわけで、Wiki以外の情報源も積極的に使うのが適切かと
思いました。

駿台の英語の先生のブログから引用。

道場主:英語の正しい表現をたくさん覚えて知っていれば、正しくないニセモノはすぐに見分けられるから、英文中の誤りなんかたちどころにわかってしまうんだ。
受講生:はい。
道場主:これは、喩えて言えば、ニセモノのダイヤを見分けるのと同じ理屈なんだ。ふだんから本物のダイヤを見慣れてよく知っていれば、ニセモノは見た瞬間に本物じゃないってわかるけど、本物を知らない者には、ニセモノを見抜くことはできないからな。