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ストーリー [編集]

大正時代に上京し、テレビ開発をした現在の富山県魚津市出身の青年と、その周辺の人物の成長を描いた。
主人公・幸吉のモデルは川原田政太郎。日本のテレビの父とされる高柳健次郎と開発競争した男である。
9月1日の放送分は、関東大震災のエピソードとなった。

川原田 政太郎(かわらだ まさたろう、1890年8月7日 - 1983年9月6日)は、早稲田大学名誉教授。富山県魚津市生まれ。高柳健次郎と並ぶ日本のテレビジョン研究の第一人者。
来歴・人物 [編集]

富山県下新川郡下野方村(現・魚津市)に生まれる。素質を認められて地元の医師の支援のもとで働きながら苦学し、魚津中学校(現・富山県立魚津高等学校)を経て、早稲田大学予科に入学した。1915年、早大理工科を卒業。
早稲田大学助教授としてイギリスに留学した際、ロンドン大学のテレビジョン実験に感銘を受け、帰国後に研究を行う。1930年に機械式の早稲田式テレビジョンの開発に成功した。このテレビジョンは高柳健次郎の開発したブラウン管方式に比べ解像度で劣るが、大型スクリーンに投影できる特徴があった。1931年、戸塚球場で行われた野球部の試合を理工学部実験室まで送信し、世界初の屋外実況中継を成功させた。
発明家としても知られ、取得した特許数は60に及ぶ。

wikipedia:高柳健次郎

静岡師範学校を経て1921年(大正10年)、東京高等工業学校(現・東京工業大学)附設工業教員養成所卒業。同年、神奈川県立工業学校(現・神奈川県立神奈川工業高等学校)教諭、1924年(大正13年)に浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)助教授となり「無線遠視法」(テレビジョン)の研究を本格的に開始する。
1926年(昭和元年)12月25日、浜松高工にてブラウン管による電送・受像を世界で初めて成功した。送像側に機械式のニプコー円板と受像側に電子式のブラウン管を用いて、片仮名の「イ」の文字を送受像した。走査線の数は40本だった。「イ」の字はいろは順の最初の文字として選んだ。
1937年(昭和12年)、NHKに出向し東京オリンピックのテレビ放送を目指してテレビ受像機の研究を本格的に開始。しかし1938年に日中戦争が激化するなどで東京オリンピックは中止、テレビの研究も中断させられレーダーなどの研究をすることになる。