懐かしいトルコの旅行

トルコで僕は考えなかった(トルコ旅行記 最終回) - 紺色のひと

とても、懐かしい。
学生旅行でいったところです。
僕は、まずトルコにはいって、そこからギリシャに向かいました。
カッパドキアとか、イスタンブールとか、歴史の教科書に写真が
いっぱいのっているようなところを、ぐるぐる巡り歩きました。

トルコについて著書を書いている人がいらして。
その人のネットワークが、その本にものっていた。
仲のよいトルコ人が、イスタンブールでホテルの経営をされている
ということなので、たしかその宿をとったことを覚えている。
しかも面白いタイミングで、その筆者の人も、イスタンブール
きていて、挨拶をしたような記憶がある。
トルコでは、妙な酒があった。
そう、ラクという酒。
こういってはなんですが、私がいままで口にしたことのあるお酒の
なかでは最悪の部類に入るのではないかと思います。
とにかく、薬のような味がしたのです。
周囲の、バックパッカーの人のなかでは、その味が好きで、
多少、水でうすめて、グビグビやっていた人もいました。
まあ、味のよしあしというのは、本当に人によって違うものだなと
思います。
お酒ではあまりいい印象がなかったのですが、地元の屋台で
売っている、お魚を焼いたものが、はさんである、サンドイッチは
とてもおいしかったのを覚えています。
そうそう、このとき。私が、トルコに滞在していたとき。
おなかの調子がよくなかったんじゃないかな。
いつも、おなかのことが心配で、あまり食事を気兼ねなくできるという
状態ではなかった。
たしか、そうだったと思う。
あの当時なので、いいレストランに入るなんてこともお金なくて
できないわけです。
あのホテルの経営者は、まだ健在なのだろうかと思う。
今だったら、アイフォンがある。
はて、トルコではアイフォンを使うことができるのだろうか。
もし、使えるとしたら、GoogleMapを駆使して、好きなところに
いっているのだろうと思う。
たしか、トルコは、表記がアルファベットだから、ネットで
住所とか、入力できるのではないかな。
トルコのネット事情はどうなっているのやらという話に
なってくるのですが。
どうなんだろう。口コミの情報とか、簡単に手に入るように
なっているのかな。トルコ語わかりません。はい。
学習参考書みたいなやつは、語学コーナーの片隅のそのまた片隅に
おいてあったかもわかりません。
そんな扱いです。隣のギリシャの国のギリシャ語も、そんな扱いでございました。
It is Greek to me.
月並みです。すいません。
いま、トルコで印象に残っていることを、思い出しているところです。
そう、このブログエントリーでも、「アヤ・ソフィア」という有名なイスラム教の寺院(オスマントルコの前は、キリスト教の寺院)で
OLの旅人に会いました。
サンリオという、キティちゃんというキャラクタの権利をマネジメントしている会社に勤務していたそうです。
今は、知的財産権とかに興味あるので、そんなことも聞いていた
かもしれないけど、当時は、そんな意識だって、からっきしなかったので、とにもかくにも「地球の歩き方」を片手に、ぐるぐると
動き回っていました。
その人とは、なぜか、宿も偶然同じだった。
いや、ムードなんてものはなかった。こっちは、男二人組みだったし。
その当時から、はっきりしていたのは、僕は、地図がとことん使いこなせないということ。
アヤソフィアの敷地の中という、かなりはっきりした基準があるのに、
そのなかで、移動するにしても、四苦八苦していて、その女性に
笑われていた記憶がある。
それは、今でもはっきり覚えている。
そして、その一行のままで、宿にもどり、そのまま日本人旅行者で
宴会をやっていた。これから、ギリシャに向かうという人もいた。
世界一周のチケットを買っているので、まったく違うエリアに飛行機に向かう人もいた。
不動産と、株式で当てたという人にあったのは、ギリシャだったかな。
トルコだったかな。
バブル経済はなやかなりしころ、本当に、ものを動かす必要は
なくて、
右から、左に不動産を仲介するだけで、簡単に数億円が儲かったとか、
そんな話をされていた。
その人は、太りすぎを気にしていて、体の酸性をゆるめるために、
ワインを、グビグビ飲んでいる人だった。
その人は、働いて生きていく上での、「生きがい」のような
ことについて話をしていた。
どうも、この人は、相場の世界で、大きく当てて、あまり働く必要が
なくなってしまったらしい。
だから、働くとしても、どうして、そんなことをしないといけないのだろうとか、そういう意識を恒にもっていたみたいで。
海外勤務のなかで、仲良くなった人とも、そんな話で盛り上がって、
朝から晩まで、酒をあおっていたということです。
こういう話も、まだ勤務とか、生活に追われるとか、そういう経験がまったくない状態で聞いてみても、何がなんだかわからないのが普通ですな。
いまだったら、また違うアプローチで、話を聞いていたのだろうけど。
もう、後の祭りでございますな。
その人は、どうやらタイという国で、ホテル住まいをしていたみたいだ。
暇になって、トルコにきて、貧乏旅行をしている人たちのところに
ふらふらとたどり着いて、
話をする。
いまにしておもうと、相場であててお金もちになったという話しも
どこまで本当だったのだろうというきもしないでもないでも、
旅先ですから。
ウソもある程度、あるということで。



歴史の教科書にのってしまうようだと、どうも「現代」では
ぱっとしないようなそんなきがいたします。

もう一度、いきたいかといわれると、そういう気にはあまりなれない
のですが。

あの当時は、お金をつかうことができなかった。
いまは、多少の贅沢はできる。
そういう立場で、遊びにいくと、また違うのかもしれない。
でも、そういう立場で、まずどこにいきたいかといわれたら、やはり
違う場所、違う国が浮かんでしまいます。

自然を楽しみたいのか、それとも、都市的な生活の断片を楽しみたいのかでもまた違ってくるでしょう。
どうなんだろう。
「都会」にすこしまみれてみると、アフリカみたいなところにいきたくもなるのかな。
私には、どうもそんな気分もありますが。

印象にのこっているのは、イスタンブールから出向した船で
ギリシャのアテネに移動したことかな。
客船の、一般席というか、夜、地べたで寝転ぶしかないような
クラスで、のりました。
そこで、同じく学生旅行をしていた人と、友達になってああでもないこうでもないと、話をしていた記憶があります。
あの船は、いまも運航しているのかなとか思います。
到着したのは確か朝だった。
それで、そのまま予約をしていた宿にチェックインしてギリシャの
旅がはじまった。
というより、結局、アテネから、動かなかったような気がする。
色々な町を飛び跳ねて歩くということに、ちょっとうんざりしていた。
ひとつの町で、ゆっくりしていたかったんだな。
そう、そうやって移動に移動を重ねている中で、
就職を来年に控えた学生さんとかにもあいました。いえ、そのとき、
私も学生だったのですけど。
たしか、このたびをしているときは、どうやって身を立てていこうかとか、そういう発想もなかったと思う。
でも、そうやって深刻なことをほとんど考えないですごすことができるというのは、とても幸せなことだったなと思う。
そういう時間のすごし方もありといえばありだ。
アテネでは、どうやって過ごしていたのだろう。
あまり、これといった印象はない。
なんとなく覚えているのは、その当時、まだ内戦をやっていたはずの
ユーゴスラビアの情報を、旅先に聞いたバックパッカーの人の
話がリアルだったこと。
現地の情勢のことを知っている人に、身振り手振りで、ボスニア内戦のようなものが、どんなものになっているのか、聞いてみたら、
マシンガンを撃つジェスチャーをして、笑っていたと、
そんなことを聞いていたと思う。
私も、朝のアテネを散歩していたときに、なにやら、分厚い本を
読んでいる、外国人の人がいて、その人になぜか、話しかけてた。
その人は、セルビアの人だった。
ごっつい体格で、目もきりっとしていた。
たしか、アメリカというか、国連というか、そういう団体が
ユーゴを滅多打ちにしていたとき。
「アメリカは嫌いだ」
そういう趣旨のことを、いっていた。
あの人は、いまどこにいるのだろう。
セルビアに帰ったのだろうか。それとも、まだアテネにいたりするのだろうか。
そう、東ヨーロッパ、いわゆる東欧というエリアのすぐ近くまで
きていたのだよな。
いまだったら、また違う意識で、旅行していることだろう。
そういえば、いまは、財政破綻で、株式市場を騒がせているのは
ギリシャだったことを思い出した。
まあ、僕が、すこし投資しているのはインドから、直接には関係ないかもしれないけど、インドの会社は、外国と取引をすることで
売り上げを立てているので、そういうわけにもいかない。
たしかに、旅先の印象として、あまりきっちりとした国民性という
イメージはなかったのを覚えています。
でも、そうやって国全体で、がんばらない生活というのも悪くないような気がする今日この頃です。
これ以上、墜落するところがないところで、ゆっくりするというのも
また選択肢の一つなのではないかと思います。
そうそう、ギリシャで思い出すのは、食事がおいしかったなということ。
お隣が、イタリアという国なので、料理が、やはりラテンなのですな。
オリーブオイルの原料になる実とかもパクパク食べるというお国柄。
肉を串刺しにして、焼肉というのが、メインになっていて、
それをおいしくいただいていました。
その料理で、思い出した。
ギリシャではサントリーニという島にいったのだった。
洞窟をヨコにくりぬいて、宿泊する場所にした宿をとって、
そこから、海を眺めていました。
天気もとてもよかった。
快適な日々を過ごせたと思う。いかにも観光という感じの日々を送ったのはここが初めてだったかもしれない。
アテネから、サントリーニも、移動の手段はたしか船。
そう、ギリシャは無数の島で構成された国だった。