今日のNHKのニュースでWIKIPEDIAを使って、引用をこさえるときは、気をつけましょうという趣旨の報道が
されていた。
論文などで、WIKIPEDIAを使う学生が急増してきているから、学術的な調査をする際に、WIKIPEDIAの落とし穴が
どんなところにあるのかを指導する演習を、愛知大学というところが実施しておりました。
WIKIPEDIAの正誤をチェックする人は、ボランティアによって担当されている。
実際に担当している人たちへのインタビューも行われていた。
特定の人への誹謗・中傷になりかねないようなことまで、書かれており、それのことの真偽は慎重に
検討する必要があるとのこと。

すいません。手元にいろいろな資料があるわけではないので、使いまくっています。
まあ、そういうことですので、ブログをご覧になるときは、注意あそばせ。
なるべく、やばめのWIKIPEDIAは引用しないようにしよっと。
とか、いいながら、WIKIPEDIAまた使って、エントリー書きます。ちょっと利害関係ありそうだな。
特に、Based On True Story的な要素が強いドラマで、WIKIPEDIAを使うとなると色々な落とし穴がありそうだな。
でも、使いたいな。
うーん。なやましいところ。本格的にブログを執筆しようとしたら、資料室がまるごと一部屋いるよね。
本当に。最近は、辞書や、データベースもがんがんオンラインになっているから、まあ、夢のまた夢ってわけではないだろうけど。
そうそう、あれは、学生時代、ギリシャに旅をしたときだった。
哲学の殿堂に来たのだからと、おもい、たしか「アテネ大学」とかいうところの図書館をのぞきにいくというようなことをしたなと
思う。んで、無事にこれたわけです。
まあ、ギリシャって、ヨーロッパの中でも、あんましお金持ちの国ではなかったから、大学もいまひとつしょぼかった記憶がある。
それでも、大学の図書館にはわんさか学生がおりました。
そして、文献のリストが、カードになっていて、それが引き出しの中にきれいに整理整頓されていたわけです。
論文を書く必要に迫られている学生さんたちは、並んで、その引き出しをあけたり、しめたりして、論文を書くための参考文献に
なるものを、サーチしておりました。
別にアテネ大学に限ったことではなくて、東京大学の総合図書館だって、そういう施設はあったわけで。
ちょっとだけITにかぶれたから、これはまさに、「情報処理」の問題なんだってことがあの当時は、つゆとも思わず。
ひたすら、アナログな操作をしていたなと思います。
なかなか、ほしい文献が見つからなかったりして。そういうときに、適切な文献をヒットさせるにはどうすればいいのかとか。
大事だよ本当に。
そう、これは、まさに、「調査の技術」の問題です。
学生時代は、知識として、習得したことをアウトプットとして、出すという発想がなかった。
本当におろかでした。
KENBUNDEN2009-見たい、聞きたい、伝えたい!東大生の、好奇心!
発信型の学習を、駒場のキャンパスにいる学生に伝授するためのゼミを立花隆氏が主催しております。
最近は、オンラインを使った情報発信がカジュアルになってきたから、ますます学生による研究発表が
充実しているようです。
そういえば、大学時代、このゼミ出身の方で、私と同じクラスに所属されていた人がいました。
たしか、霞ヶ関に就職された。
いま、お元気にされているのだろうか。もしも、またご挨拶できるのであれば、お会いしたいところです。
もうご結婚されて、お子さんがいたりするのかなとか。そんなことを思う。
あの当時、その先輩が、そのゼミでどんな調べ物をしたのかとか。そんなことも、知ろうとも思いませんでした。
私の頭の中には、知識はアウトプットするためにあるという発想が、根幹から抜けていたのです。
恐ろしいことです。
そんな状態で、なぜゆえに、東京大学文科一類に入学できたのかいまだに、不思議でしょうがない。
そういえば、駒場では、「情報処理」という講座もありました。
たしか、単位は取得したと思ったけど。この授業もまじめに聞いていなかった。
これも後悔のひとつです。あの当時、高校が同じだった学生で、授業のはるかに上をゆくほど、コンピュータを
やりこんでいたから、授業がヒマデヒマでしょうがないと嘆いていた学生もいたっけな。
教官が、自分の授業で設定している問題演習を確実に授業中にやるようにと、きつく言い渡しておりました。
おいらは、あの時、どんな感じで授業に出ていたのだろう。
そう、あの時、すでに、ITスキルのデバイドというのは、確実に存在していたんだ。
もう、あの時。
ホリエモンがオンザエッジという会社を作ったのはいつなのでしょう。

オンザエッジがAD4Commerceのサービスをセプテーニに事業移管(2002.10.22)

AD4Commerce概要(平成14年10月22日現在)
運営:株式会社オンザエッジ
設立:1997年7月
資本金:21億9827万5000円
代表者:代表取締役社長 堀江 貴文
所在地:東京都渋谷区渋谷3-3-5 モリモビル4F

うーむ。これはWIKIPEDIAではないけど、ネタとして本当なのでしょうか。
まあ、設立したときくらいは、いいのかなこれで。あ、オイラが大学に入学した年じゃないですかこれ。
そういえば、友達で、もうこの時期に、インターネットの勉強をして、自分のホームページを作っていたという話を
聞いたことがある。
そう、できる人って、違うのですね。根幹的に。
彼は、法学部に入学したけど、物理と数学が得意で点数を稼いだといっていた。
そして、いまは、弁護士。当時から日記をつけるのを慣習として、すでに、ノートにしておそろしいほどの蓄積があるという
お話を伺った。
そう、本当に、すごいやつが集まっていたのですよ。あそこは。
自分はあの時、何をやっていたのだろうって、思う。
まあ、仕事柄、若い人を見ますから。
なんというか、「聞けワダツミの声」ではないですけど。
なんとなく、彼らが、特攻隊に見えてしまうのは私が病気だからでしょう。
いや、なんとなく。このままでいいのかしらんっていうか。
そう思う。
よく、やっているじゃないですか。太平洋戦争の犠牲者を追悼するというような趣旨で、いろいろなドラマとか。
あれで、やれ原爆だとか。やれ、特攻隊だとか。それで、学徒出陣とか。
あ、Wikipedia使いたくなってきた。
wikipedia:学徒出陣

学徒出陣(がくとしゅつじん)とは第二次世界大戦末期の1943年(昭和18年)に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系(および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の)学生を在学途中で徴兵し出征させたことである。

1943年10月2日、当時の東條内閣は在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)を公布した。これは、理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の在学生の徴兵延期措置を撤廃するものである[3]。
文科系の高等教育諸学校の縮小と理科系への転換

1943年の徴兵対象者拡大の際、学徒出陣の対象となったのは主に帝国大学令及び大学令による大学(旧制大学)・高等学校令による高等学校(旧制高等学校)・専門学校令による専門学校(旧制専門学校)などの高等教育機関に在籍する文科系学生であった。彼らは各学校に籍を置いたまま休学とされ、徴兵検査を受け入隊した。
これに対して理科系学生は兵器開発など、戦争継続に不可欠として徴兵猶予が継続され、陸軍・海軍の研究所などに勤労動員された。ただし、農学部の一部学科(農業経済学科など)は「文系」とみなされて徴兵対象となった[4]。しかし、末期には医学部をのぞく理系学生も徴兵された。

このブログを読んでいる高校生のみなさん。(いるのか?)もし、読んでいたら、くれぐれも大学は理系にいきましょう。
じゃないと、徴兵されちゃいますよ。いざとなったら、兵士として、消耗されるような学科になって間違ってもいってはいけません。
本当に、お役に立てる学問を実につけてください。
ドアホ文系からの遺言だと思って、聞いていただければいいなと思います。
まあ、文科系の学問には、面白さがあるのだけど。エンタメの要素だけで人生きめたらいけません。この点、尊敬する和田大先生のエントリーは傑作かもしれません。

勉強に手遅れはあるか|和田秀樹オフィシャルブログ「テレビで言えないホントの話」

実は、まだ正式タイトルがはっきり決まっていないが、反貧困の勉強法の第二段として、30代からの勉強法の本を来月に講談社のプラスアルファ新書から出すくらいだ。(前の本ともどもできがいいので、ぜひ応援してほしい)
実際に今のご時世学歴がない(いい大学でも中退なら、最終学歴は高校卒になってしまう)なら資格に頼るほうが賢明だし、むしろ資格がないとこれからが厳しいくらいだ。もう遅いのでなく、今やらなければ手遅れになりかねないということだろう。
知的機能はむしろ30代のほうが高いだろうし、記憶力の衰えは理解でカバーできる。今の20代と比べて基礎学力もしっかりしている。
むしろ、もうダメなんじゃないかと思って、途中で投げたり諦めるかの問題だろう。
しかし、どんな資格であれ、食える資格であれば、それを取ってからは人生が変わる。

これを読んでいて思ったけど、教育産業って、ある意味で、とても「切実なニーズ」があるなと思う。いつだって、みんな勉強は切実なんだなって思う。
教員養成のコースの人たちも兵器つくるかわりに、「人間つくる」ということで、徴兵がちょっと免除されていたんだね。こういう職業に身をおいているからかな。なんていうか。
本当に、なんというか。背筋が寒くなってきます。このエントリーを書いていると。なんか、気持ちが上向かないね。本当に。
戦争についての記述というのは、おそらく、日本の出版の中で、それこそ、一つのジャンルを形成していると思うけど。どういうポジションで戦争に関与していたのかという視点は
僕は、子供のころ、あまり持っていなかった。そういえば、父に、「文系は戦争にもっていかれる」といっていたのを思い出した。
そう、そんなことをいわれても、文系を選んでしまった私。はい、そうです。私は、本当にアホです。

とかいいつつも、医学者として和田大先生は、映画監督の夢をもっていらっしゃるということで。
商業映画の監督|和田秀樹オフィシャルブログ「テレビで言えないホントの話」

こっちが映画を撮るために医学部に入る(なんどか書いているか分からないが、大手が助監督の採用をやめたので、自主映画を作るしか映画監督の道はないと思っていた。そのために金を作りやすく、仕事をやめてもまた雇ってもらえる医者を志したのだ)ための勉強を必死でやっているのに、東京の付属校の人間は、受験勉強もしないで映画を撮れることが、その才能を妬む以上に悔しかった。(あとで調べてみると、犬童氏も法政でない大学にいっていたから、受験勉強をしていたのかもしれないが)
さっさと映画の世界に飛び込めばいい、医者になってなど逃げだというのは簡単だが、貧乏な中からパートをしながら私立の中学、高校に行かせてくれた親を泣かせたくなかったから、私にとっては医学部に入る以外に、みんなを泣かせない解決法が思いつかなかったのだ。

これは、本心でいっているのだろうか。学徒出陣でも、最期まで徴兵を免除された学部出身だということを、知ってのことなのだろうかとか。
そんなことも思わないでもない。
そして、この学徒出陣の項目をみていて、文系と理系とは、つまるところ、どういう役割分担なのかということを、痛烈に考えさせる項目も書いてあった。

このような戦中・戦後の死線をくぐり、日本に帰還した学徒兵は多くが元の学校に復学し卒業した後は戦後日本の復興や発展の牽引役となった者も現れた。答辞を読んだ江橋も生還し、後に東京大学教育学部教授や鹿屋体育大学学長になった。早稲田大学第一商学部から陸軍パイロットとして従軍した竹下登も戦後に卒業して故郷の島根県で県議となり、後に内閣総理大臣まで務めた。一方、竹下の後に内閣総理大臣となった宇野宗佑は神戸商業大学在学中に学徒動員となり、シベリア抑留を経て帰国した後も大学には戻らず滋賀県県議から政治家の道を歩んだ。宇野内閣では内閣官房長官塩川正十郎慶應義塾大学経済学部の学生として明治神宮外苑の壮行会から出征した(出征中に卒業扱いとなる)。竹下と宇野、それに明治大学専門部政治経済学科から1944年に召集され、戦後に卒業した村山富市の3人が、日本の内閣総理大臣になった学徒出陣経験者である。
また、茶道裏千家の家元の家に生まれた千玄室は同志社大学法経学部経済学科在学中に徴兵を受け海軍で志願して特攻隊員となったが、出撃前に戦争が終結したために大学に復学し後に第15代家元を襲名した。千の居た部隊で生き残ったのは2人だけで、もう1人が日本大学専門部芸術科から徴兵された後に俳優になる西村晃だった。

ここらへんになってくると、おそらくWIKIPEDIAの管理人によるチェックというのは、とても重要になりそうだ。詳細なことを知ろうと思ったら、確かに、学徒出陣についてつっこん調査がいりますわね。
そんな作業をやったが最後、そりゃ文系の不毛になるわけです。

東京大学史史料室 [ 東京大学史史料室編『東京大学の学徒動員学徒出陣』 ]

なんだか、WIKIPEDIAの信用性についての話をチョロリとするだけだったのに、えらい話が脱線しました。すいません。許してくだされ。本意は、アウトプットを出すことが大事だということを学生時代に
わかっていなかったおろかな自分への反省文のつもりで、このエントリーを書いているのです。そして、無駄なことかもしれないけど、このエントリーを読んでくれる若い人たちが、どうかこのエントリーを読んで、
学習のあり方とは、何か。なんていうのかな。勉強って、何のためにやるのかって、ことを意識してほしかったんです。
5年間。教育という分野でご飯を食べさせてもらいました。
仕事というものが、最期に何を動かせるのか。どういう足跡を残せるのかということで評価されるとしたら、僕はどんな足跡を残してみたいって、思うのだろう。
それは、とても単純な何かなのかもしれない。
「ただ、勉強してって。」
「自分のことを大切にしてって。」
「幸せになってって。」
そんな言葉でいいのかな。
それでも、きっと伝わることはないよね。
うん、きっとそうだ。書いたものは、残ることはあるけど。現実の前にはやっぱり無力なんだよね。
ああ、なんで、こんなことを書いているのかな。まあ、いいや。ブレーンストーミングブレーンストーミング

そう、僕は状況というものを知らなかった。
環境というものを知らなかった。
社会の中での己の位置というものについて知らなかった。
そんなことを確認できるというのもブログのいいところなのではないでしょうか。
だから、僕は、いろいろと問題はあるだろうけど、このメディアには、一定の興味を持ち続けたいと思っている。
僕は、ブログを記述することで、何かを得ているって、感じる。
書く側にまわるというのは、やはり大事なことだと思う。何が、手段で、何が目的なのか。自分の中で、思考を整理する働きが必ずあると思う。

もうそろそろ本題にはいりましょう。
Yahoo!テレビ.Gガイド [テレビ番組表]

ドラマのあらすじ。

そのころ、アメリカを始めとする各国政府は、外国資本の参入を事実上禁止してきた日本政府への批判を高め、中でも特に、自動車産業に対する資本の自由化を求めていた。

壹岐は、資本自由化は国際企業とのビジネスを拡大すると好機ととらえ、兵頭信一良(竹野内豊)らに情報収集を命じた。そのころ里井は、近畿商事が輸出代理店を務める千代田自動車の営業担当専務・村山(田村亮)に会っていた。そこで村山は、社運をかけた新車の開発を進めていること、万が一それが失敗に終わったときは、業界5位の富国自動車との合併を考えていることを里井に打ち明ける。そんな折、壹岐の前に、元部下の小出宏(松重豊)が現れる。

ええ、わかっていますとも。これはたしかに、お芝居ですって。リアルではないですって。
でもね。こういうエピソード形式にしたほうが、わかりやすいことってあるのではないですか。
少なくとも、私は、どんな学生向けの就職セミナーより、このドラマのほうが、己に立ち居振る舞いというか、仕事へのスタンスを考えるのに、いい「教材」はないのではないかって、思ってしまうのですよ。
内田先生の民法の教科書は、リアルそのままではないにせよ、教育的効果はあったでしょ。だから、あれだけ売れているのでしょ。
プロの人からみたら、色々と問題があるのだろうけど。
問題だらけのWIKIPEDIAでも、ある程度、使い勝手はありますわね。まあ、それが一般的に認知されているから、こういう信憑性への問題が起きているわけだけど。
そういえば、「官僚たちの夏」も、リアルで官僚をやっている人たちの間で、好んで視聴されたという話をどこかで聞いた。

企業価値評価は、「なんでも鑑定団」の会社版 - book-loverの日記
ここでは、近畿商事が、M&Aのアドバイザリーのようなことをやっている、事業の買収だの、売却だのって、昔からあったのですよね。
当たり前ですよね。本当に。
wikipedia:資本自由化

資本自由化(しほんじゆうか)とは、対外資本取引に対する撤廃を指すが、日本においては昭和40年代に行われた外国資本の日本への直接投資の自由化措置を指す。貿易自由化とともに日本経済の開放経済体制への移行と先進国としての地位獲得に大きな役割を果たした。
日本では、明治以後外国による経済的な植民地支配を危惧して外債も含めて外国資本の導入が積極的であったとは言い難かった。それは第二次世界大戦以後も変わらず、1950年に外資に関する法律(外資法)が制定されて、外国資本の出資比率を50%以下に制限して日本国民の所得向上および雇用増進、国際収支の改善に資する投資に限って認められた。これは日本国外から見れば、日本の産業と競合する業種については事実上の「原則禁止」措置と受け止められた。
1961年に円ベース株式取得制度が導入され、利益を外貨送金しない事を条件に出資比率100%の子会社設置が認められた。IBMによる日本IBMの完全子会社化実現はその例であった。
ところが日本は、1964年にIMF8条国へ移行し、国際収支の悪化を理由とする為替制限が禁止された。さらにOECD加盟によって、資本外取引と資本移動の自由化を義務付けた「資本取引の自由化に関する規約」に加入することとなり、これを契機に従来の「原則禁止」措置に対する国外からの批判が高まった。特にアメリカからの資本自由化要求は強く、1966年の第5回日米貿易経済合同委員会によって日本は資本自由化を約束させられることとなった。
これに従って、①1967年7月・②1969年年3月・③1970年9月・④1971年8月・⑤1973年5月と5度に分けて資本の自由化措置が実施された。ただし、これは国内産業に対して打撃の少ない部門から徐々に開放するという方式が取られ、自動車産業などアメリカなどとの国際競争の激しい産業は後回しにされた。これによって一部の外資規制を除いて外国資本100%の出資が認められるようになった。

詳細な条文なんかは知りませんけどね。すいません、不勉強で。
外国の機関投資家や、企業が、日本の株式や社債に投資しようとすると、色々な法規制があったのだということですわね。その条文をいじって、国会や、大企業から合意をとって、法案として、成立させるような仕事が
官僚の仕事だったのだと。霞ヶ関の仕事だったのだと。
この文章をご覧になるだけでも、就職先がいくらでも出てきますワイね。

通商産業省
大蔵省
IBM
OECD

ええ、そうですよ。私、いま思えば、関係当事者にお会いしましたもん。
そうですよ。これリアルなんですよ。
このドラマで登場しているサラリーマン諸君は、霞ヶ関の法律改正で、どういうように、日本のビジネスシーンが変わるのかを予測して、チョコマカと動いているだけなんす。
これが、「官」と「民間」なんだって。
なんで、こんな幼稚なことを僕はわからなかったのだろう。
ああ、本当に、僕はおろかでした。
そう、主人公は、色々な人と会って、交渉をすることにエネルギーを費やしています。でも、これは法律の問題でもあるのだって。
政治の問題でもあるのだって。
霞ヶ関や、永田町の仕事というのは、どうも、不出来なバカ学生が、理解するには、あまりにもスケールが大きすぎた。
私は、本当におろかでした。
環境をつくる仕事なんて、若いみそらでは、想像できなかったですって。
wikipedia:自動車産業
こういったところになってくると、もう、専門のアナリストの出番だね。WIKIPEDIAの手に負えるところではないよ。きっと。そう、WIKIPEDIAは調査の出発点なんだよね。
そう、その価値は確かにあるよ。きっと。
それがきっかけで、知識が深まるなら、いいじゃないですか。ねえ。
「先生」としてはおおいに、WIKIPEDIAバンザイといっていいのだろうか。うーむ、これは、ちょっと利害関係が絡みそうな話だから、異論反論があると思うけどね。

日本 [編集]
明治時代、日本の自動車産業は生まれた。当初は輸入のみで、日本で自動車は生産できなかった。その後、個人ベースでは山羽虎夫(1904年)、内山駒之助(1907年)が純国産車を作成する。昭和時代になると企業による国産車の生産も始まるが、技術水準は高いとは言い難かった(日本車、日本ゼネラル・モータースも参照されたい)。 大正7年に軍用自動車補助法が制定されると国の補助を受けて自動車が購入されるようになり、日本の自動車需要は急速に伸びた、しかし、国産自動車の販売は伸びず、アメリカの自動車ばかりが売れ、国産自動車も部品の多くをアメリカからの輸入に頼った半国産ばかりであった。このような状況からアメリカからの輸入車が増え、対米貿易赤字が膨らんでいく状況に、大日本帝国陸軍の強い圧力により政府は自動車製造事業法(1936年)を制定し、日本国内企業のみに自動車生産を許可した[7]。この法律によってフォードやGMなどのアメリカメーカーは日本から撤退した。さらには海外からの技術導入が困難になり、日本の自動車はこれ以降、純国産化することになったが、技術水準の低さから故障が多く、稼働率の低い自動車ばかりとなった。根本的な解決には敗戦を待たなければならなかった。[7]。この際に自動車生産企業と部品企業とが密接な繋がりを持ったことが、戦後のケイレツに繋がっていくことになる[7]。

これだって、就職を考える際の大事な情報なんだよね。本当にそう、思う。
産業の歴史。ビジネスの歴史というものを考えとき、ようするに、「技術」の発展や、やり取りでしょうにって。ことで。

今回のドラマでは、千代田自動車という架空の会社が登場して、技術力はあるけど、営業が弱いという設定。
いいものつくっているのに、営業に押し切られて、不良品を出す羽目になったり。
今回も、いいものは、つくるだろうけど、きっと売れないだろうというような話が、来週は出てくるみたいだ。
ここで、ようやく学徒出陣で、消耗品扱いされた文系の出番になる。

会社の値段 (ちくま新書)

会社の値段 (ちくま新書)

追記 
傑作のブログ 不毛地帯を同じスタンスで解読しているブログがあったので。
お探しのページが見当たりません。

4月からは、東京の研修所で3週間の研修が始まり、何日目かに、本店の講堂で瀬島龍三(せじまりゅうぞう)なる人物の講演会を聞くことになりました。研修中の担任の話では1時間弱の講演料が100万円。本当にいい人を講師にお願いできたと鼻高々の様子でした。ところが、新入行員達は瀬島龍三が誰だかわからない。講演の有難味がちっとも分からなかったんですね。その後、『不毛地帯』の主人公のモデルだという話を聞き、手にしたのがこの本です。
 作中では主人公は壱岐正(いきただし)。昭和14年に陸軍大学を卒業した壱岐は、大本営陸軍部の作戦参謀として活躍。敗戦後、シベリアに抑留され11年間捕虜収容所で強制労働に従事します。抑留解除の昭和31年に帰国するわけですが、防衛庁からの強い勧誘を断ったため、当然、職はありません。部下達の就職先探しに奔走する日々でした。一方、大阪の綜合商社「近畿商事」(モデルは伊藤忠商事)の社長、大門一三(だいもんいちぞう)は、船場の繊維問屋からスタートした近畿商事を旧財閥系の綜合商社に対抗しうる本格的な綜合商社にステップアップさせたいと考えていました。そのためには大局的な視点から判断をし、企業を組織的に運営できる人材が必要であることを痛感していたのです。大門は戦時中の大本営の参謀に狙いを定めます。かつて国家の総力を賭け、現在(昭和30年代)の貨幣価値に換算すれば一人数千万円をかけて養成した参謀クラスの中から優秀な人材を選び出すのは合理的で確率の高い人材発掘法であるというのが大門の考えでした。そこで目をつけられたのが、壱岐正だったわけです。

人材養成機関としての軍隊というもの。
そして、それを民間企業が利用する。
こういったところでも、教育と学歴は、経済社会に確実な社会を投げかける


追記 出所はちょっと不明だけど。
ハーバード大学の資金運用チームのボーナス:
<24日のAWSJ(ウォール・ストリート・ジャーナル)にゴールドマン会長のボーナスが7000万ドル、約80億円との記事があった。少し下にハーバード大学の資金運用チームに2100万ドルのボーナス。トップには600万ドルのボーナスとある。米国金融関係のボーナスの大きさに改めて驚く。>