レヴィ=ストロースという研究者が死去したことについて書こうと思う。
実は、私は彼が書いた文献を1冊も読んだことがない。
そういう研究者について、私が、何かを書くということは、なにやら、信義則に反するのではないかという気持ちがないではない。
確かにそうかもしれない。しかし、私の「経験」が、彼の死去について、何かを書き残さないではいられない、なんらかの気持ちを後押ししている。

原稿用紙10枚を書く力

原稿用紙10枚を書く力


きっかけは、この本なのではないかと思う。梅田の駅の紀伊国屋でこの本が平積みになっていた。
もう2年前になるけれど、国語の科目を生徒に教えることになった。理数系の成績はとても優秀なのに、どういうわけか、国語の成績がぱっとしない。どうにか
ならないかという案件だった。色々とやってみた。日記を書いてもらったり。レポートらしいものを書いてもらったり。残念ながら、成績が向上することはなく。私の指導も
途中で打ち切りということになりました。とても苦い思い出になります。そのとき、生徒さんにどうやって、発信をしてもらおうかという意識があった。
自分の中にあるものを、どんどん文章にしてもらうには、どうすればいいのかということを、私なりに、日々の授業の中で考えていた。そのとき、確か、この書籍を手にした。
書店で久しぶりに、見かけて、なんとなく、心に残った。このハテナ・ダイアリーでのブログの更新が300回前後になるに及んで、切れ端を書くのではなく、ある程度、
まとまったものを書きあげていきたいという意識が強くなってきた。
実際に、以前、20枚まで書いてみたことがある。
そうしたら、私の中で、何かが、変わったようなそんな気持ちになってきた。自分の中で、何かが、きれいに整理されたのではないかという意識が芽生えてきた。

ある人物について、自分の思うところを書く。そのとき、その人物がどんなものを書き残したのかということは、実は、その人物のとてもとても限定された一部分でしかないという意識が生まれた。
もちろん、ストロースは、研究者であるから、彼が自分の最大のウリとしていたのは、間違いなく、「論文」だったと思う。
しかし、ストロースという個人を見た場合、朝起きてから、夜寝る。その中に、どこに住んでいたのかとか。どんなことに興味があったのかとか。誰と交友関係をもっていたのかとか。
どんな家庭に生まれたのかとか。彼の「生活」を規定する、圧倒的に長い時間があったはずだと、そういうところにフォーカスがいってしまう。学部で大学を出てしまったからかもしれない。

wikipedia:クロード・レヴィ=ストロース

クロード・レヴィ=ストロース(Claude L〓vi-Strauss, 1908年11月28日 - 2009年10月30日[1])はフランスの社会人類学者、思想家。コレージュ・ド・フランス社会人類学講座を1984年まで担当し、アメリカ先住民の神話研究を中心に研究を行った。アカデミー・フランセーズ会員。
専門分野である人類学、神話学における評価もさることながら、一般的な意味における構造主義の祖とされ、彼の影響を受けた人類学以外の一連の研究者たち、ジャック・ラカンミシェル・フーコーロラン・バルトルイ・アルチュセールらとともに、1960年代から1980年代にかけて、現代思想としての構造主義を担った中心人物のひとり。

1908年に両親が一時的に滞在していたベルギーのブリュッセルにて生まれる。両親ともアルザス出身のユダヤ人の家系であり、また両親はイトコ同士であった。父親の職業は画家であり、その交友関係は芸術を通じてのものが多く、幼少期から、芸術に親しみやすい環境で育った。

ブラッセルには、何度か足を運んだことがある。オランダのアムステルダムというところにいたことがあり、そこから車で1時間強くらいの距離だったので、駐在員をしていた父に、連れて行ってもらったのだ。
ここには、EUの本部がある。友達がアムステルダムに来てくれたことがあったとき、二人で本部に足を運んだことがある。そういえば、大学で「EU法」という科目をとったこともある。
EU法の研究者が、こんな法律もあるのですよと、教えてくれた。ベルギー・チョコレートが、有名なところだよね。ションベン小僧の泉とかもここですよ。ストロースさんは、ユダヤ人だったのですね。
フランス人であるわけでもない。どこかのナショナルの帰属意識がきっとない人だったのだと思う。理想的なコスモポリタンであるとか、そういったものではなく、「生まれついて」発想に、ナショナルなものがなかったのではないかと
思う。あるいは、「環境」がそういうふうに、していたというべきかもしれない。

両親の友人らを通じて、比較的早くからマルクス主義にふれ、高校から大学時代にかけて社会主義運動に参加し学生組織の書記長を務め、ベルギー社会党の協同組合運動をフランスに紹介するなどの活動を行い、社会党代議士ジョルジュ・モネの秘書として法案作成に携わるなど、政治活動を行っていた。パリ大学で法学の学士号を取得するかたわら、哲学を学び、アグレガシオン(哲学教授資格試験)に合格する。合格後の教育実習の同期生たち、モーリス・メルロー=ポンティ、シモーヌ・ド・ボーヴォワールなどがいた。
教授資格取得後、2つのリセ(フランスにおける中等教育機関、日本の高校相当)で哲学教師を経験する。資格取得試験のために中断していた政治活動を再開し、教師生活の傍ら赴任地の地方議会への立候補を企てるなどの活動を行うも、哲学教師としての生活にあきたらず、パリ大学での指導教授のひとりであった社会学者セレスタン・ブーグレから、新設のブラジル、サンパウロ大学の社会学教授としての赴任の打診を受けたことをきっかけに、当時興味をもち始めていた民族学のフィールドワークへの期待を抱いて[2]、社会学の教授としてブラジルへと渡る[3]。

学歴を仕事にしていく側面が、わかりやすく経歴に出ています。
政治をやりたいから、法学部に進学する。理由は簡単。政治とは、予算を作成して、法律を作って、試行していくものだから。マルクス主義という政治的信条に共鳴するかどうかはどうでもいい。
とにかく、政治にかかわりたかった。その手段として、法学部に進む。きわめて、全うな思考回路だと思う。哲学の先生になる資格試験というものが、私には興味深い。かつて私も、「哲学青年」をやっていた時期がありました。
そう、しっかり政治活動というものを経験としてもっていて、しかるべき大学で法学部の学士号を取得している。そして、哲学の先生の資格もGet。だから、「大学の先生」という恵まれたポストを抱えて、ブラジルにいくというお膳立てが
できた。そのときの、彼の研究者としての問題意識なんて、どうでもいい。ブラジルにいくまでの、彼の「プロセス」そのものが、私にとっては大事だ。
キャリア・パスを構築していく、流れそのものが大事なのだ。就職活動をしているストロースさんという側面が大事なのだ。
彼は、このとき、なんだかよくわからないが、「長いブログのエントリー」を書いてみたくて、そのネタを探すために、南米にいったのだ。
そういえば、私の弟夫婦が、新婚旅行に選らんのが、ブラジルのジャングルでした。写真もたくさん見せてもらいました。ロスアンゼルスで、旅行代理店の人を見つけて、ブラジルにいくための飛行機の手配や、宿の手配をしているのを、
横で見ていました。

大学教授として、1932年の護憲革命後の新たな社会の担い手を自認する新興ブルジョワ層の学生相手に社会学を講じ、妻ディナとともにサンパウロ州の郊外を中心に民族学のフィールドワークに取り組んだ[4]。
2年間の大学教授生活の間は、主に大学の休暇を利用して現地調査を行い、長期休暇の際には、パラグアイとの国境地帯に居住していたカデュヴェオ族や、ブラジル内陸のマトグロッソ地方に居住していたボロロ族のもとでの調査を行った。これらの調査結果は、フランスへの一時帰国の際に、マルセル・モースらの後援のもとで、パリの人類博物館などで発表された。その後、大学からの任期延長を断り1936年からほぼ一年間を、ブラジルの内陸部を横断する長期調査に費やす。この調査の途上で、ナムビクワラ族やトゥピ=カワイブ族など、アマゾン川の支流に暮らすいくつかの民族と接触している。
ブラジルへと渡るまでの経緯や、ブラジルでの現地調査などのさまざまな体験、さらに後述の亡命を経て第二次大戦後フランスに帰国する頃までの体験のいくつかが、著書『悲しき熱帯』(1955年)のなかで印象的に回想されている。

学業というものが、一定の終止符が打たれたら、次は、「実践」ということになる。彼は、「ブラジル」「インディオ」という「他者」に出会うことを、自分のキャリア・パスの皮切りにした。
彼は、「ブログ」のネタになる「体験」を蓄積させていった。理工系の人間だったら、メーカーにいって、商品開発に従事するとか。大学に残る人だったら、高エネルギー物理学研究所みたいなところにいって、実験して、データとって、
論文に自分の名前を載せさせることを生きがいにして、生活するのだと思う。もちろん、理工系の調査の方法論というものには、ストロースさんは、さぞかし敬意を払って、仕事をしていたのだろう。
彼は、実験室に入るのではなく、ブラジルにいって、色々な人と会うという方法論をとったと。それを、自分の「売り」にしようとしたと。

ブラジルでの長期横断調査の後、第二次世界大戦前夜にフランスに帰国して応召、西部戦線に従軍する。フランスの敗戦により兵役解除となり、いったん南仏に避難するも、ナチスによるユダヤ人迫害が迫るのを逃れて、マルセイユから船でアメリカ合衆国へ亡命する。同じ船上には、シュルレアリスト詩人のアンドレ・ブルトンもいた。
亡命先のニューヨークでは、ブルトンを初め、当時ニューヨークに集っていたシュルレアリストたちと親しく交際[5]。彼らと連れ立って、アメリカ先住民の美術工芸品の収集を熱心に行っていた。社会人大学のニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチにて文化人類学を講じる。当時のニューヨークにはまたヨーロッパからのユダヤ系をはじめとする亡命知識人たちがおり、ニュースクールには彼らが教師として多数名を連ねていた[6]。

彼の職業スキルは、「教師」とにもかくにも「教える」ということ。そして、「論文」という「ブログ」を書くこと。

ニューヨーク公共図書館に通いつめての所蔵文献資料の検討の結果である、オーストラリアから北東・東南アジア・古代中国・インドの親族構造を題材にそうした交換様態の存在を例証した第2部・第3部からなる大著『親族の基本構造』を、博士論文として完成させた。

彼の出世作が、彼の住みなれたフランスではなく、「アメリカのニューヨーク」という異国の地で生まれたというのは、なんとなく大切なのではないかと思う。そして、彼が、論文というブログを完成させるために、どういう情報源に
アクセスしたのかということも、私の問題意識の中ではとても大事だ。
知識や、教育で得たものを、お金にする。次のポストにつなげていくための方法論の分析というのは、そういうものなのではないかと思う。

wikipedia:ニューヨーク公共図書館

ニューヨーク公共図書館(ニューヨークこうきょうとしょかん、New York Public Library、略称:NYPL) は、ニューヨーク市に所在する公共図書館。米国を代表する図書館のひとつで、私立の図書館としては世界屈指の規模をもつ。
3つの中央図書館に加え、ニューヨーク市内の各地に大小あわせて80を超える数のブランチ・ライブラリー(地域分館)と、研究目的のために公開される4つのリサーチ・ライブラリー(研究図書館、日本でいう専門図書館にあたる)を保持している。またインターネットを積極的に活用した情報発信や数多くの教育プログラムを開催しており、ニューヨークにおける総合的な教育・研究機関として機能している。グーテンベルク聖書や、カポーティの草稿など、歴史的にも貴重な多数の蔵書を所蔵している。
名称には "public" という語が含まれているが、設置主体はニューヨーク市ではなく、独立の法人であり、財政的基盤は民間からの寄付によって成り立っている。ニューヨーク公共図書館の館名の場合のパブリックは「公立」(地方公共団体が設立した)という意味ではなく、「公共」(一般公衆に対して開かれた)という意味にあたる。公共図書館であるため利用は原則として無料で、ニューヨーク市に在住あるいは勤務している者であれば誰でも会員になることができる。

1948年頃に完成した『親族の基本構造』を携えて、フランスへと帰国する。1949年に『親族の基本構造』は論文審査を通過し、フランスにおいて公刊される。
神話学者ジョルジュ・デュメジルの紹介により、高等研究実習院に職を得て、未開社会における宗教をめぐるセミネールを、この後、コレージュ・ド・フランスへの社会人類学講座創設にともなってのこのセミネールが発展的に解消されるまで担当する[8]。

著作集『社会学と人類学』の編集

2度にわたってコレージュ教授選へと立候補するも、学閥間の争いの結果として落選

3度目の立候補で、親友の哲学者であるメルロ=ポンティの尽力をはじめ[10])、デュメジルバンヴェニストらの後押しもあって、1959年からコレージュ・ド・フランスの教授に選出される。

本当に、狭い狭いサークルの中で生きてきた人なのだと思う。
そして、それは、そのまま彼が、生活をしていくための道というのが、とても狭いものだったのではないかということを推測させる。


追悼レヴィ=ストロース (内田樹の研究室)

その試験のとき、私の想像では、ボーヴォワールとメルロー=ポンティとサルトルは「つるんで」いた。
試験のあいまに近くのカフェでちょっと休憩とかしているときに、「はは、楽勝だったねえ、さっきの試験」「オレ、時間あまっちゃったから、裏まで書いちゃったよ」などと声高に語って、まわりの受験生たちを怯えさせていた(そんなにせこくないか)。
でも、パリ大学出(ということは二流大学出ということである)レヴィ=ストロースはこのエコール・ノルマル組からある種の「排他性」と「威圧感」を感じたはずである。

アグレガシオンの試験が1930年前後で、レヴィ=ストロースサルトルの世界的覇権に引導を渡したのが1962年『野生の思考』においてのことであったから、ざっと30年かけて、レヴィ=ストロースは「そのとき」の試験会場で高笑いしていたパリのブルジョワ秀才たちに壮絶な報復を果たしたのであった。
すごい話である。
自己史がそのまま哲学史であるような一種の幸福な自己肥大の中に生きた青年たち。

親族の基本構造 (内田樹の研究室)
ストロースが、論文には、どこにも書いていないようなことを、内田先生は、自分の経験から導出する。
ただ、内田先生が、こういう発想にいたったのには、ストロース先生の着想、業績があったのは確かだ。
このエントリーを読んでいて、そう思う。

それは「この二人の成人のふるまいはいずれも『私を成熟させる』という目的においてはじめて無矛盾的である」という回答に出会うことである。
だが、この父と伯叔父を統合する包括的フレームワークは父も伯叔父もどちらも与えてくれない。
子どもはこれを自力で発見しなければならない。
それは「成熟」という概念を子ども自身が理解しない限り発見できない。
成熟しない限り、「成熟のための装置」としての親族の意味はわからない。
親族は本来そのように構造化されていたのである。


まちがったっていいじゃないか (ちくま文庫)

まちがったっていいじゃないか (ちくま文庫)

学生時代に購読したものなので、はっきり断言できません。
しかし、私が、レビ・ストロールの名前を知ったのは以下の本が
初出だったと思う。
東京大学の人文系の研究者がレビ・ストロースのテキストをどうやって読んだのか。
そして、テキストを読んでどういう研究成果を生み出してきたのか?
「悲しき熱帯」「野生の思考」こういった本のタイトルも、この本ではじめて知った。
このテキストは、受験勉強を終えて、東京大学にはいったばかりの学生たちに、
「知識詰め込み型勉強」の時期を終えて、「発信型の勉強」に頭を転換させようという教育的意図が
あったのだということを、今になって、思う。
私も「基礎演習」という講座を受けました。たしか、何かを調べた。何だったかな。
クラスの友達は、
「日本の戦後責任
「まんがの作品論」
この二つは覚えている。一つは、今、裁判官をやっているはずの人がやった。
出身は、学芸大学付属高校。たしか、お父さんは、裁判官。

もう一つは、「お父さんが、財務官僚」というお嬢さんだった。彼女の出身は、筑波大学付属高校
ほかの学生も、いろいろな発表をしたのに、覚えているのは、この2本のプレゼンだけ。
なぜ、彼女のプレゼンを強烈に覚えているかというと、
発表に採用した漫画の作品が好きになった理由の一つに、「日本国家は、大蔵省のものだ!」と断言してはばからない
お父さんが、大嫌いでしょうがなかったという、彼女の生い立ちとリンクしていたからだと思う。
そう、多少、「反体制」ににおいがある漫画だったのかもしれない。
彼女と連絡する手段がつかない。もしコンタクトがとれるなら、あの時、どんな漫画で、プレゼンを打ったのか知りたい。
スラっとした、スタイルのいい美人だっと思います。

僕が在籍していたクラスにはもう1人、http://www.seg.co.jp/:SEGという塾で、数学の成績が優秀。お父さんが、大蔵省の官僚という人がいた。
ゲーム大好き。よくファイナル・ファンタジーの話で盛り上がった。というか、そんな話しかできなかった。
麻布出身。そんな彼は、いま弁護士をやっているはず。

そう、このプレゼンには、学生なりに、「伝えたいこと」というものが、あったのだと思う。
なんせ、自分が調べたテーマすら忘れてしまっているのだから。
ただ、ひとつ、覚えているのは、指導教官に、「もっと調べなさい」と、つまり、「勉強不足」という烙印を
おされたこと。これは、覚えている。
当時、この講座を受けていても、発信型の勉強とは、何か、私には、よくわかっていなかったのだと思う。
そして、そのまま司法試験へ。

自分がやったテーマを思い出せない。アホな学生でした・・・・・。

新・知の技法

新・知の技法


知の論理

知の論理


知のモラル

知のモラル

ブルバキの数学のテキストに、東京大学で研究者として取り組んだと思われる数学者についての私のエントリーはhttp://d.hatena.ne.jp/book-lover/20081231:こちらです。

ブルバキの「数学原論」が執筆された際に、ブルバキのメンバーが参考にした文献のリストや、原論の全体像についての説明が記載されている本についてのエントリーはhttp://d.hatena.ne.jp/book-lover/20090129:こちらです。
Wikipediaより

未開社会の婚姻規則の体系、無文字社会を贈与の問題や、記号学的立場から分析した。オーストラリア先住民(アボリジニ)と東南アジア・古代中国・インド・北東アジアの婚姻規則の体系を構造言語学のインスピレーションをもとにして統一的観点からの分析し、博士論文となった1949年の『親族の基本構造』において自らの基本的立場を明らかにした。 この分析に群論を使って数学的見地から裏づけを与えたのは、ブルバキグループの一員であったアンドレ・ヴェイユシモーヌ・ヴェイユの兄)である。

大学での数理物理学の学習について、調べているときに、目に留まった記事。
ソーカル事件。面白い事件だと思った。そして、この事件において、ソーカルという研究者が、レビ・ストロースという研究者に対して、なした扱い方は、彼を一流の人文学研究者として認識するのに、
最高の金字塔になっているのではないかと思う。このことについて書いたエントリーというか、メモ書きは、http://d.hatena.ne.jp/book-lover/20090521:こちら
WIKIPEDIAより

他の「構造主義者」と異なり、レヴィ・ストロースの文章は明晰であると評価されている。難解な言い回しを用いず、また彼の構造主義という発想の基点の一つである数学的知識に関しても誤った理解をすることなく受け入れたことで、後にフランス現代思想界を揺るがすアラン・ソーカルによる一連の批判(ソーカル事件)の対象外に置かれることとなった。

日本にブルバキのテキストを輸入した数学者集団の1人、森毅氏についての私のエントリーはhttp://d.hatena.ne.jp/book-lover/20090118:こちらです。
彼もまた、京都大学で数学の先生をしているとき、「学生運動」の只中にいました。

なぜか、私が書いているこのブログでは、この「学生運動」になんらかのかかわりのある人たちが数人いる。「学生運動」の中心人物の1人だったといわれる
山本義隆氏も、物理の優れた教育者としての側面にスポットライトを当てて、下記のブログで取り上げました。
とある 物理屋 の仕事について - book-loverの日記
別に、政治論をやっているわけでも、若者論をやっているのでもなく。
「あるべき教育」いやもっと具体的に言えば、「あるべき理科と算数の教育」「文系と理系」という問題意識で積み上げたテーマを継続してきたつもりです。


「知の技法」という言葉でGoogle先生にお伺いを立てたところ、中学受験、大学受験の現代文のチャンピオンに引っかかりました。
養老 孟司先生講演

次に非常に驚かされたのがオウムの世代であります。よく宇宙人と言いますが、ある日、解剖の実習をしていましたら、ある学生が突然「先生、尊師が水の底に1時間いる実験をするので、一緒に見に行って証人になってください。」と言います。
「何をやっているのか」と聞くと「ヨーガをやっている」と言い、良いことがあったか聞くと、「食欲や性欲がなくなった。オウムでは空中浮遊等も日常的だ。」と言う。まったく愕然としました。
私の講義の中では「血液を5分間止めると人間の脳は回復不能である」と教えています。彼らの頭の中はどうなっているのだろうか。現在起っている世の中の事と超常現象が頭の中で同時並行に走っていて、現実の世界とそうでない世界の区別が無いのです。

そういえば、まだ読んではいませんが、村上春樹という作家が書いてヒットしている「1984」という小説も、新興宗教に帰依する集団が出てくるそうですね。

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

私が東大出版会の理事長をしていた頃、「知の技法」という本が東大出版会始まって以来というぐらい売れました。その時はなぜ売れているのか分かりませんでしたが、今は分かります「知は技法になってしまった」のです。技法というのは、ノウハウということです。
知のノウハウということ、つまりマニュアルであります。こうしたい時はどうしたらいいのかがマニュアルを見れば、理も非も無くわかるのです。

一つは「体を使って働け」ということ。もう一つは「人間の創ったものを信用するな」ということです。昔の芸事のお師匠さんは何も教えてはくれませんでしたので、自分で自主的に学ばなければなりませんでした。

養老先生のこの問題意識というか、価値判断というか、最期は「師匠の芸」を「盗め」というのは、たしかにその通りなのだろうけど。
どうも、私は100%同意するのには、賛成しかねる。
法学部に在籍していたとき、とても成績優秀なお嬢さんにあったことがある。
彼女は、本当に優秀。たしか、お父さんは、東京地方裁判所の判事でいらしたと思う。
司法試験だって、2回うけてもう合格していた。法学部での学業成績もとてもよくて、トップ5位には入っていたと思う。
私が法学部に在籍していた当時、「助手」制度というものがあった。
法学部での学部時代の学業成績がいいと、法学部に「助手」採用される。雇用の期間は3年間。
ポストというのは、いつの時代も手段であり、目的は、「助手論文」という「ブログ」を仕上げること。
このブログが、東京大学の法学部の教授に、「チェックされ」「まともな論文である」ということが、認定されると、
国立大学や、有名私立大学の法学部の助教授(今は準教授?)のポストが入ってきて、
いずれは、「教授」になるというキャリア・パスが敷かれていた。
そうそう、この「助手」のポストをけって、判事になった女性も知っている。
デートに誘って、断られた経験があります。
おっと、話がそれてしまった。
そうそう、私が知っている、「助手」のポストを手にした女性の話。
そんな彼女と、なぜか、二人で食事をする機会があった。
そして、そのとき、彼女が困っていたのが、「どうやって論文を書いていったらいいのかわからない」
ということだったのだ。
それは、はっきり覚えている。
たしか、彼女の担当の先生は、民法の教授だった。彼の書いた教科書は、今でも、法学部の書籍売り場にいったらあるはずだ。
そう、食事をしながら、この話を聞いていて、
「こんな成績優秀な彼女を困らせるとは、何たるやっちゃ」
という意識があった。
そして、そんな時期、法学部の先生で、こんな本が出版されていたのです。

民法研究ハンドブック

民法研究ハンドブック


彼女は、「この本が出てとても助かっている」といっていたのを、覚えている。
私も、この本を司法試験の受験勉強をしている傍らに、読んでいた。
「知の技法」と、「民法研究ハンドブック」は、「発信型」つまり、本やら文献やらを仕込んで、プレゼンの形に落とし込んで、
発表する流れのスキルを扱っている点では共通している。
もちろん、後者のほうが、トピック(民法学のテキストを読んで、論文を書くというスキルにフォーカスしている。)が限定されているので、当たるべき文献なども、網羅されていて、今でも、
傍らにほしい本だと思っている。あれ、どこいったっけこの本。
たしか、フランス民法が、ナポレオンの時代に起草されたときの議事録とか、「そんなの本屋には、売っていないだろう」というような本も
書いてあって。とても、暇になったら、読んでみたい文献の宝庫だった。

このエピソードで何が言いたかったのかというと、つまり。
彼女ほど、優秀な人間、誠実に勉強していた人間ですら、論文の執筆に苦労していたとするなら、
「知の技法」が、「知」の堕落だというような書き方をするのは、多少なりとも問題があるのではないかということだ。
彼女ほど、優秀だった学生ですら、今にして思うと、「発信型のスキル」を要求する「知のスキル」を身につけるのには苦労していた。
だとしたら、今の大学の教育システムで、「知の技法」を、「師匠から芸を盗む」の方法で、勝手にやれといって、開き直ってしまった場合、
ほとんど、人間が、大学の活用の仕方を、よくわからないまま卒業してしまう可能性が高い。
もっとも、これは、私が在籍していた学部が、「文系」だったということにも、致命的な理由があるように思う。

「助手論文」を仕上げることができたら、「大学のポスト」が来る。
実は、彼女が直面していた問題は、「採用」「キャリア・パス」の問題だったのだと、こうして、書いてみて思う。
もっというと、彼女の指導教官と、彼女との「人間関係」だったのだろうけど。
どうやら、指導教官は、研究者としては、まともであっても、彼女のような成績優秀者を、論文執筆で、方向性がわからず苦労させるという点では、
多少なりとも「問題」があったのかもしれない。

ある程度、まとまったものを書いていると、書いている部品、部品の「役割」について考える。

「知の技法」を使った「講座」の実態。(私もその中にいた。)

そして、このテキストについて、養老大先生が、かみついていたということ。

私の知っている成績優秀な法学部生が、論文の執筆の「やり方」に困っていたということ。

私が、駒場の教養学部のキャンパスで目の辺りにしていた現実は、当然、教養学部で講座を担当していた研究者が「教育」の職務を実行するときにも、
直面していたはずだ。
私も、個人という単位で、生徒が学習するサポートをしてきた。
その経験に照らしてみても、「知の技法」というテキストの編纂と、このテキストに基づいたカリキュラムの作成・実施は、とても大事なことだったのだろうと
思う。
やり方によっては、学生の「学習意識」というものについて、多少なりとも貢献ができたのではないかと思う。

追記
アメリカでは資格を取れ - 統計学+ε: 米国留学・研究生活

そもそも資格を取るメリットは何であろうか?

Rionさんのブログで触れられている通り、
主なものは「シグナリング」と「独占利潤」だろう。

このうち、
アメリカでは「シグナリング」が果たす役割が
日本と比べて非常に大きい
という印象を私は持っている。

一つの理由は、アメリカが移民国家であるということだ。
いきなり外国から来たどこの馬の骨か
分からない人では評価してもらえない。
そんな時に、例えば有名大のMBAとかPhDというのは非常に役に立つ。
アメリカの技術系の職種でPhDが
運転免許に例えられる
のはそういった事情だ。
これは必しも経歴だけの話だけではなく、
在学中に培うコネクションという形でも大きく影響する。

以前こんなことがあった。
Citibank の投資銀行部門のインターンに応募しようとして
ウェブサイトで情報を入力していたら、
在学校をプルダウンで選ぶ項目があって
ほとんど有名大学のMBAプログラムしか載っていない。
そして、その項目を回答しないと次の項目に進めない。
注意書きを見ると、
「このリストはcomprehensiveなものなので
あなたの大学は必ず載っているはずです。」
と書いてある。
日本でこんなことをやる企業があったら
すぐに2ちゃんねるで祭りになるだろう。

だとしたら、やっぱり医学部なのかなあ。本当に思う。日本の学歴社会は、医学部の存在が一体何かということを知っていないと、理解できない。
理工系は、キャリア・パスの構築からみて、その応用にしかみえない。
裏をとっていないけど、医学部につぎ込まれているお金を考えたら、ほかの理工学部の予算なんて、おそらく、すくないのではないか。
このことについての無知が、どれだけ私の人生に破壊的な回り道をもたらしたか。
もう後の祭りだけど。せめて、このエントリーを読んだ人、ほとんどいないだろうけど。学歴の形跡は慎重にやってほしいと思う。
でも、どこかで迷いもある。
ストロースのような生き方は、本当にもろくて、はかない生き方だったんだなと、つくづく思う。
でも、一度、彼のような生き方をした人間がいるのだと知ると、なんとなく、露骨に職探しが目当てで、大学にいくというのが、どうも、引っかかる部分もある。
いや、負け惜しみでした。
戦略をもっていないで、勉強した私がおろかだったのです。
本当に、私は、失敗をした。
取り返しがつくのかどうかは、これからやってみないとわからないけれど。