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いよいよ、第1部が読了いたしました。
次回からは、とうとう第2部に突入します。

第9章 ソースファイルとプログラム

形態は機能に従わなければならない。 Le Corbusier

Wikipediaから、引用します。

Le Corbusierのような人物の言葉を引用するというところから、この「プログラミング言語C++」の筆者の性格のようなものを垣間見ることができるような気がします。
そういう観点から興味のあるような記述については、太字で、表示させてもらうことにしました。
たしかに、まっさらな土地に、建物をドーンとこしらえるということと、プログラミングコードを何万行も書いて、ソフトウェアを完成させるというプロセスは、同じ工学の
仲間ですから、似たような部分があるのでしょう。
似たような仕事をしているのであれば、たとえば、世間的には、異分野として認知されていても、おとなりさんのTwitterが、あちらさんの共感を強烈に呼ぶことはおおいにありえることです。
個人的な話になりますが、私がたまたま東京に遊びにいったとき、六本木ヒルズというところの、高層タワーのてっぺんのほうで、Le Corbusierの展示会のようなものをやっていました。
この人が、設計にかかわった建物の模型とか、彼のテキストの引用とか、そんなものが、こじゃれた建物のなかで、展覧できるようになっていました。
たしか、入場料は500円だったような気がします。
建築家の人には縁がありません。たしか、大学の後輩に、建築というか、土木をやった人がいたな。
いつか、そんな人にも、話を聞ける機会があればと思います。

ル・コルビュジエ(Le Corbusier、1887年10月6日 - 1965年8月27日)はスイスで生まれ、フランスで主に活躍した建築家。本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリ(Charles-Edouard Jeanneret-Gris)。フランク・ロイド・ライトミース・ファン・デル・ローエと共に近代建築の三大巨匠と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とすることもある)。

スイスのラ・ショー=ド=フォンに時計の文字盤職人の父エデゥアールとピアノ教師の母マリーの次男として生まれた。家業を継ぐために時計職人を養成する地元の装飾美術学校に学んだが、専門的な大学教育は受けていない。
美術学校在学中の1907年に、ル・コルビュジェの才能を見いだした校長のシャルル・レプラトゥニエの勧めで、建築家のルネ・シャパラと共に最初の住宅『ファレ邸』の設計を手がけている。1908年にパリへ行き、鉄筋コンクリート建築の先駆者であるオーギュスト・ペレの事務所に、1910年にはドイツ工作連盟の中心人物であったペーター・ベーレンスの事務所に籍を置き、短期間ではあったが実地で建築を学んだ。

この人のキャリア・パスを見ていると、「エンジニア」と「学歴」という問題意識に突き当たります。
学校で教育をうけているかどうかというのが、あまり問題になっていないのですね。
ようするに、「実績」があればいいのだと。
そういう面が「文系」の職種よりもはっきりしていると思います。
「営業」「販売促進」「会社の人間関係を円滑にした」
こういったことは、たしかに、事業を推進していくうえで、不可欠な要素になりますが、履歴書に書けということになると、とても形になりにくい。
自分の実績をアピールするということをやろうとすると、どう説明したらいいのかわからない部分があります。
「わらかない」→「重要ではない」という評価が、短絡的すぎるとは、思うのですが。
しかし、会社の採用担当者が、こういう思考回路をとる可能性は、十分にありえると、私は思います。
「営業」はそういう点で、まだしも、わかりやすいかもしれません。
「お客さんとして、こういう人を新規の案件でとってきた」
これは、比較的に、わかりやすいからです。
ベンチャーキャピタルの真似事のようなものをやっている人から聞くと、
あるビジネス・アイディアがある。
それを、事業にできる技術者もいる。
そのアイディアを投資家に説明できるプロデューサーもいる。
ここまで、そろっていて、投資家になる連中が最後の決め手として、何を求めるのかというと、
「その事業をはじめたとして、お客さんはどれくらいつくのか?」
という問題に、返答ができるかどうかが、決め手になるそうです。
ベンチャーを立ち上げる前は、大企業に在籍していて、その大企業がもっているネットワークを駆使して、あらかじめ
「自分が新しく立ち上げるサービスのお客さんになってくれますか?てゆうか、なってください」
と、ほうぼうに、声をかけて、立ち上げるときは、いつでも、取引に入れるということになっていることを、投資家に説明できると、
彼らは、転んでくれるそうです。

この話は、「スーツ」と「ギーク」という役割分担がどのようなものであるのかということについて考えるのにいい材料を提供しているのではないかと思います。

1911年から半年かけてベルリンから東欧、トルコ、ギリシャ、イタリアを巡る東方への旅へ出た。ラ・ショー=ド=フォンの美術学校で教鞭を執った後、1914年に鉄筋コンクリートによる住宅建設方法であるドミノシステムを発表。1917年にパリへ行き、2年ほど鉄筋コンクリート会社に勤めた。1920年にダダの詩人のポール・デルメ、ピュリスムの画家のアメデ・オザンファンと共に雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』(L'esprit Nouveau)を創刊。この頃からル・コルビュジエというペンネームを用いた。(このペンネームは、祖先の名からつけたもの。)

今風でいえば、自分がもっている技術で、「先生」をやっていた。そして、そのかたわらで、Web2.0の風にのって「ブログ」を立ち上げた。みたいな。
そのとき、雑誌創刊をするための、仲間が2名いたということに注目したいと思います。
トルコにも、ギリシャにも、イタリアにもいったことがあります。
どこも楽しい海外旅行の記憶があります。特に、イタリアは2回いってしまいました。いつか、3回目でいってもいいなと思うのはやはりイタリアかな。

1922年にペレの下で働いていた従兄弟のピエール・ジャンヌレとともに事務所を構えた。1923年に『レスプリ・ヌーヴォー』に掲載された自らの記事をまとめた著作『建築をめざして』を発表し、世界中の建築家から注目を集めた。この著作の中の「住宅は住むための機械である(machines 〓 habiter)」という言葉は彼の建築思想の代表的なものとしてよく引用される。1925年のパリ万国博覧会(いわゆるアールデコ博)では装飾のない『レスプリ・ヌーヴォー館』を設計し、アール・デコ装飾の展示館が並ぶ中、異彩を放った。また1922年のサロンドートンヌでは『300万人の現代都市』を、1925年にはパリ市街を超高層ビルで建て替える都市改造案『ヴォアザン計画』を、そして1930年には『輝く都市』を発表した。これらは低層過密な都市よりも、超高層ビルを建て、周囲に緑地を作ったほうが合理的であるとするもので、パリでは実現しなかったが、以降の都市計画の考え方に影響を与えた。1927年、ミース・ファン・デル・ローエが中心となり、ヴァイセンホーフで開かれたドイツ工作連盟主催の住宅展に参加し、2棟の住宅を設計した。

1928年以降に開催されたCIAM(Congr〓s International d'Architecture Moderne、シアム、近代建築国際会議)では、ヴァルター・グロピウスミース・ファン・デル・ローエジークフリート・ギーディオンらとともに参加し、中心メンバーとして活躍した。CIAMは国際的な近代建築運動の拠点になった。1931年竣工の『サヴォア邸』はル・コルビュジエの主張する「近代建築の五原則」を典型的に示し、代表作として知られる。1936年にはルシオ・コスタの招聘を受け、ブラジルに滞在し、オスカー・ニーマイヤーと共に旧教育保健省庁舎の設計に携わった。第二次世界大戦の際、ル・コルビュジエはドイツに協力的なビシー政権に与したが、ピエール・ジャンヌレはフランスのレジスタンス運動に参加したため、2人は袂を分かつことになった。
第二次世界大戦後、ドミノシステムに基づく集合住宅『マルセイユのユニテ・ダビタシオン』(L'unit〓 d'habitation de Marseille)を建設(1947年-1952年)。ユニテはこの計画はかつての主張の実践であった。また1951年からはインドのチャンディーガルの建築顧問として都市計画に関わった。
後期の代表作『ロンシャンの礼拝堂』(1955年竣工)はカニの甲羅を形どったとされる独特な形態で、鉄筋コンクリートで可能になった自由な造形を示している。ここでは従来主張していた機能性・合理性とは異なった表現に達した。
1965年、南フランスのカプ・マルタンで海水浴中に心臓発作で死去。享年78歳。
妻イヴォンヌ(1957年)、愛する母(1960年)が相次ぎ他界。また、自身の記録を完成させた直後であり、自殺説もある。

近代建築の五原則(きんだいけんちくのごげんそく)は、ル・コルビュジエにより提唱された近代建築の原則。
ピロティ
屋上庭園
自由な平面
独立骨組みによる水平連続窓
自由な立面
からなる。 クック邸で実現され、サヴォア邸でより完成度の高いものとして実現された。

プログラミング言語 C++  第9章目次

ル・コルビュジエが、建物を設計するように、筆者は、以前の章から登場している電卓プログラムを
がっしりとしたソフトウェアに仕立てていきます。
そのプロセスをテキストにしていくことで、ソフトウェアを開発していくということがどういうことなのかを、読者に伝えようとしているようです。
アカデミックな立場で、「事態をながめる」「わかりやすく整理だけする。」のではなく、
いわゆる「現場」で、タチのわるいトラブルに巻き込まれながらも、なんとか、つじつまをあうように奮闘してきたのではないかと
推測させる「エンジニア」としての彼の横顔のようなものが見えてきます。

9-1 分割コンパイル
9-2 リンケージ
 9-2-1 ヘッダファイル
 9-2-2 標準ライブラリヘッダ
 9-2-3 定義は一度の規則
 9-2-4 C++以外の言語で書かれたコードへのリンケージ
 9-2-5 リンケージと関数ポインタ
9-3 ヘッダファイルの使い方
 9-3-1 単一のヘッダファイル
 9-3-2 複数のヘッダファイル
 9-3-3 インクルードガード
9-4 プログラム
 9-4-1 非局所変数の初期設定
9-5 アドバイス
9-6 練習問題

大学の教育関係者と実務にかかわる人間の境界線の関係について、垣間見ることが出来ます。
そして、このやりとりがある仕事は、いわゆる「上級職」という位置づけになっていると、評価しています。少なくとも私は。
「お客」とは何者かということを、実務で経験した人にとっては、強く共感する部分があるのではないかと思います。

私が、このテキストのこの場所を読んでいて、思い出すのは、「政治家」と「官僚」のポジションの違いです。

「政治家」→インターフェース
「官僚」→実装
「国民」→ユーザ
官僚出身の政治家が、最初に苦戦するのは、実装担当の仕事から、インターフェース担当の仕事にかわるとき、職務内容の性格がかわるということに、
体や感覚がついていかないということがあるのではないかと思います。
国会で、答弁をするということと、マスコミのインタビューに答えるということの違い。
いや、この違いはあまりない。
霞ヶ関のビルのなかで、同僚と法案の審議をするのと、頭が真っ白の法学部に入学してきた学生に話をするときとの違いなのかな。
裁判員制度というのも、「実装」を中心にやっていた裁判所が、前より、本格的に「インターフェース」の設計に本腰をいれる必要が出てきたという
タームで説明することが出来る。

追記
 プログラムを作成して、販売する流れを想定するとき、耳にいれておきたいと思ったエピソード


このインタビューの3ページ目にご注目!

登場人物

任天堂の社長 岩田さん
株式会社ポケモンの石原さん
株式会社ゲームフリークの森本さん

岩田さんが、他の二人にポケモンのゲーム開発のプロセスについてあれやこれやと聞いています。
ITの世界では、もうひとつの外国語がある。
人と話をする言葉ではなくて、コンピュータプログラミングという言葉。

ゲームフリークの森本です。
僕は今回、ディレクターを担当しましたが
『赤・緑』のときはプログラマーとして
開発に関わりました。

岩田
それにしてもオリジナルの『金・銀』は、
とても難産でしたよね。

石原
発売が1999年の11月ですから、
3年半もかかってしまいました。

森本
実際、当時、プログラマーの数が少なかったんです。
それは『金・銀』だけじゃなく、
『赤・緑』のときもそうだったんですけど
プログラマーの数が4人くらいでしたね。

岩田
すごく少ないですね。
あれほどの大きな規模のソフトを、
その人数でつくっていたこと自体、
今では考えられないですよね。
しかも、とても複雑にできてるわけですから。

岩田:
当時、わたしは任天堂の人ではなくて
HAL研究所の社長だったのですが、
同時にクリーチャーズの役員でもあったご縁があって
『赤・緑』の海外版のローカライズがどうやったらできるのか、
その分析の仕事に関わることになったんですね。
そこで『赤・緑』のプログラムソースをあずかって、
それを読み込むようなことをして、

「こうすればローカライズできますよ」と
任天堂の担当部門につなぐようなことをやりました。

岩田:

はい(笑)。
NINTENDO64で『ポケモンスタジアム』を出すことになって、
まず『赤・緑』のバトルのロジックを解析して、
宮本(茂)さんたちのチームに渡さなきゃいけないんですけど、
当然のことながら仕様書なんかありませんでしたから・・・。

森本
すみません(笑)。

岩田
いえいえ(笑)。
ポケモン』の戦闘のプログラムを読むというのも、
わたしの仕事でした。

森本
戦闘プログラムは
とても長い時間をかけて、僕がつくったんです。
ところが、岩田さんはわずか1週間くらいで移植して、
それがもう動いてるという話を聞いてですね・・・
どんな社長なんだって(笑)。

一同
(笑)
森本
「あの人はプログラマーなの? それとも社長なの?」
とか言ったり(笑)。

岩田
はっきり言って、
社長というよりは、プログラマーでしたね、当時は(笑)。
森本
(笑)。
ビックリしました、本当に。
このわかりにくいプログラムを
こんなに早く読まれちゃったのかって。

石原
さほど高級な言語を使っているわけでもない、
ゲームボーイのソースを全部読んで、
どことどこがつながっているということを理解できる人は
そうそういないと思っていたんです。
だから、岩田さんがそれを全部読んで、
『赤・緑』のローカライズの方針と、
N64でバトルを動くためのしかけを全部書き直して、
つくってもらったというのが、なんとも驚きで・・・。

岩田
当時はとにかく
『金・銀』の開発に影響を与えないようにということが
任天堂のグループ全体ですごく大事なことだと感じていましたから、
わたしも自然と『ポケモン』をつくる側に
加わることになったんでしょうけどね。

森本
しかも岩田さんに、
ポケモンのグラフィックを詰め込むツールも・・・。

岩田
圧縮ツールですね。

森本
つくっていただきました。

岩田
はい(笑)。
石原さんから、
森本さんたちがすごく悩んでいるという話を聞いたので。
森本
そこで僕らも調子に乗って
「ここがちょっとうまくいかないんで、修正をお願いします」
みたいなことも頼んでましたよね、社長さんに、図々しく(笑)。

岩田
何でもしてましたから(笑)。

石原
社長にしておくのは、もったいないよね(笑)。
一同
(笑)